「星を見よ」

 作品がばらばらだと、時にあるいはしばしば言われてきた。自分でもいろいろな絵を描いているとは思っている。個々の作品は、その構造、文節化も異なっていよう。

 ところで言うまでもなく、愛は「愛」という言葉以外でも伝えることができる。悲しみは笑顔のなかにも、陽だまりのなかにもある。青い世界を表現するために青を用いるのではない。四角を言いたくて四角を描くわけではない。すいかには塩をかける。

 作品は演繹的に作り出されるわけではない。個々の作品が帰納的に描き出す作品世界。そもそも比喩でしか言い表せない世界や、眼差しあるいは視差でしか示せない世界があるわけで。

 作品の総体は、一点一点の作品という星が織りなす星座と言えるかもしれない。それぞれの作品がそれぞれの位置を持つ。この点は蟹の目かもしれないし、あの点はこぐまの指先かも。ここの点の流れはスカートの襞だろう。抽象形態かもしれない。冬の大三角形っていったいどんな了見ゆえでしょうかね。「冬の大三角形」、言葉もいいな。素敵です。
 星座を成す星たちは、生まれた時がばらばら。一人の作家の作品が、左から右へ、あるいは右から左へ、一本の線上に位置づけられるものではないことのアナロジーとも言える。
 また、星それぞれは、ひとつの平面上に存在しているわけではない。この星の何億光年向こうに、奥行きを持って隣の星がある。立体的に把握すること。その距離が、この作品とあの作品との遠さとすることもできるかもしれない。間違えてならないのは、決して作品同士の遠さ、それ自体を求めているわけではないということ。

 星座の話となると、星は単なるその構成要素という位置を与えられかねない。しかし、何はなくともまずは星である。あくまでも作品、星が存在して初めて、事後的にそれらが結ばれるのである。星座が先行してあり、そこに当てはめるように作品を作り出すのではない。作品一点一点が光り輝く星でなければ。それにより、自ずと各々の位置が与えられる。「光り輝く」というのは、作品の強度のこと。どんよりした色の絵でも、居心地の悪い絵、不穏な絵、間抜けな絵であっても、その個々の作品たちが持つ固有に光り輝くやり方で。もちろん、調和のとれた絵、美しい絵でも。

 星座は星が生まれた時から遥かな時が下った後、遠い地球からの視点により生まれた。時間的、物理的に遠い視座。もはや存在していないかも知れぬこの光をもつなげた。星を見たから像が結んだのだ。

荻野僚介

(『アクリラート 別冊2017』ホルベイン画材、2017年、43ページ)