「ふたつの図書館、28、29」
就職して家を出たと思いきや、2年間のBゼミイヤーズを終えると、父と母が暮らす実家に戻ってきた。出戻りというやつである。近所のおばさんには、「あら、僚ちゃん、帰ってきたの?」なんて訊かれ、「はあ、そうなんです」なんてどうにもばつが悪いのである。ましてやそのまま絵を描くことを主とする生活であり、人類の大いなる財産を築いているという自負はあるものの、定職にも就かず、うっすら後ろめたいものを、もっと言えば背徳感のようなものを感じているのである。皿洗いや風呂掃除、ゴミ出しなどは私の担当であった。
中学を出るとそれまでの友達とは会わなくなっていたし、話せる地元の人間はいない。30手前のその町は居心地がいいとは言えなかった。
図書館によく行った。取り壊されて久しく、今やその区画もすっかり様変わりしたが、当時は家の近くに県立図書館があった。子どもの頃から通っていた。佐藤さとる+村上勉の『おおきな きが ほしい』のページをめくったのも、あの茶色いソファ。2階には大きく分厚い画集「世界の巨匠シリーズ」が並んであった。コンスタブルの巻を借りてきて模写をしたのは、高校3年の春休みのこと。
その県立図書館、この素っ気ない建物もモダニズム建築の影響なのだろうな、しかしどうにも魅力は感じられんなあと、実家を離れる以前とは違った角度から眺め遣る。
図書館はもうひとつ、赤いレンガの市立図書館もあった。文庫本コーナーに並んでいた『ベルリン 一九六〇』をたまたま手に取った。著者は長谷川四郎。知らない作家だった。異国の町を、社会情勢を、出会う人たちを、淡々と描く。やわらかに突き放すようなユーモアと共に。湿度のないその文章に魅了された。講談社文芸文庫は他に名作『シベリア物語』『鶴』も収めていた。情念皆無の乾いた文章。感情は語られずとも、その透徹な情景描写により、背後にある情感がそこはかとなく滲み出し、広がっていく。静謐な世界。
それを得るとそれ以前とは違って見えてくる。県立図書館にもその著書は並んでいた。自分の本棚のカフカの短編集の訳者が長谷川四郎だったことを知る。同じく長谷川訳の『ロルカ詩集』を古書店で入手にしたのは、ティム・バックリィがロルカに捧げた曲「Lorca」を聴いたのがきっかけだったか。
ちなみに、長谷川四郎には3人の兄がおり、次兄は近年再評価の声を聞く画家の長谷川潾二郎である。自身が言及しているものの、その絵からアンリ・ルソーからの直接的な影響はさほど感じられない。風景画には弟・四郎の世界に通じると言っていいような寂寥感が漂う。ガソリンスタンドのこの絵はまるでホッパーだし、画面のつくりは異なるものの、幾ばくかヴァロットンを想起させる。(時代背景を含め、長谷川一家周辺は頗るおもしろい。新聞社主筆として筆禍事件による下獄も体験する父親・淑夫、英語教員時代の教え子に北一輝がおり、その思想形成に少なからぬ影響を与える。長男は、アメリカ放浪の後、牧逸馬、林不忘、谷譲次の筆名で流行作家となる海太郎。三男の濬も小説、翻訳の分野で活躍。などなど。)
同じ頃、埴谷雄高もよく手に取った。文庫化される以前の『死霊』は全巻県立図書館で借りられた。エッセイは市立図書館の方が充実していた。埴谷他、文芸作家による『精神のリレー』という講演集があった。内容は記憶にないが、埴谷の言によるそのタイトルだけは残っている。文学に関してのその発言であったが、作り手の意識としてもっと言えば、自らが手にしている媒体に関わらず、ジャンルを問わず、時代を超え、「精神のリレー」、そういうことだよなと思ったことを憶えている。
僕の死後10年後、100年後、どこかの誰かさんがひょんなことから僕の作品、あるいはその複製画像に目を留め、なんだこれ、ちょっとおもしろいじゃん、なんて思ってくれたらしめたもんである。うれしいもんである。なんてことを時に思いながら絵を描いています、当時から。気が付いたんだけど、バトンは1本じゃなかった。
荻野僚介
(『ペインティングの現在 −4人の平面作品から−』川越市立美術館、2015年、84-85ページ)